開田高原の甘いとうもろこしとああ野麦峠(女工哀史)
飛騨のかっぺたん
6月も後半に入りました
気候も丁度穏やかになり、ドライブシーズン到来
5月1日に野麦峠が山開きし、
爽やかなドライブを楽しむことが出来ます。
明治・大正の日本を支えた
飛騨の女工達を
偲んでみては・・・
明治~大正時代、信州へ糸ひき稼ぎに行った飛騨の若い娘達が吹雪の中を命がけで通った野麦街道の難所、標高1672mの野麦峠。
かつて13歳前後の娘達が列をなしてこの峠を越え、岡谷、諏訪の製糸工場へと向かいました。
故郷へ帰る年の暮れには、雪の降り積もる険しい道中で、郷里の親に会うことも出来ず死んでいった娘たちも数多いといわれています。
この峠には「お助け茶屋」と呼ばれる茶屋があり、旅人は疲れた体を休め、クマザサの生い茂る峠を信州へ、飛騨へと下っていきました。ノンフィクション「ああ野麦峠」で知られ、女工哀史を語るうえで悲しい物語を秘めた所なのです。
1979年(昭54)、映画「ああ野麦峠」(監督 山本薩夫主演 大竹しのぶ 新日本映画・東宝配給 )が製作され、日本中を沸かせました。
明治時代の生糸の生産は、当時の輸出総額の3分の1をささえていました。現金収入の少なかった飛騨の農家では、12歳そこそこの娘達が、野麦峠を越えて信州の製糸工場へ「糸ひき」として働きに行きました。そして、大みそかに持ち帰る糸ひきのお金は、飛騨の人々には、なくてはならない大切な収入になっていました。
年の暮れから正月にかけての借金を返すためにも、あてにされたお金だったと言われています。
2月も半ばを過ぎると、信州へ働きに行く古川周辺の娘達は古川の八ツ三旅館に1泊し、次の日高山で、あちこちの村々から集まってきた人達と一緒になりました。
宿屋の前には、山一・山二・片倉組・小松組などの岡谷の製糸工場の社名を書いた看板や高張り提灯が立ち、娘を送ってきた親と子の別れがいつまでも続きました。
「ええか、しんぼうするんやぞ。ためらっていってこいよ。(気をつけて行きなさい)」「ツォッツァマ(お父さん)も病気しなれんなよ。(病気にかからないように)」 娘は泣き、見送る親たちも涙をこらえて別れを惜しみました。 そして、何百、何千という女工が列をつくり、お互いに励まし合いながら、雪深い野麦峠を越えて信州へ旅立っていきました。
信州の工場では、わずかの賃金で、しかも1日に13~14時間という長い時間働かされ、病気になっても休ませてもらえないくらい、厳しい生活だったそうです。さらに女工の寄宿舎には逃げ帰ると困るので、鉄のさんがはめられていました。
当時、実際に働きに行ってみえた明治生まれの人達に話を聞いてみました。
「雪が降ってくりゃ、野麦峠には銭が降ると思って行け。と親にいわれたんやぜな」(明治15年生)
「おりだち(私たち)は、こんで(これで)飛騨とも別れるんやな、ツォッツァマ(お父さん)、カカサマ(お母さん)、まめでおってくれよ(元気でいて下さい)。といって、飛騨と信州の境で、みんなでしがみついて泣いたんやぜな」
「13のとき、岡谷の山共製糸というとこへ7年契約で入ってな。姉4人といっしょで、姉はみんな百円工女やったもんで、オリ(私)も負けんように働いたもんやさ。みんなで稼いだ銭で、ツォッツァマ(お父さん)は毎年田んぼを買いなたと思うんやさ。たしか、あのころ1反(10アール)で100円か 150円くらいやと思うけどな」(明治24年生)
「岡谷の大和製糸へ14のときから8年の間、野麦峠を越えて通ったんやぜな。入ったときゃ10円、2年目は25円、3年目には45円、8年目にはたしか95円もらったと思うけどな。そのほかに、賞与として1円、2円、3円、5円などを毎年ちょっとずつもらったんやさ」(明治31年生)
以上の話でもわかるように、1年間働いて100円もらえる人は優秀な人で、だれでも1日も早く100円工女になれることを願っていました。
こうした涙ぐましい女工達の働きによって、国は生糸の輸出を増やし、娘を出した農家では、現金収入を得ることができたのです。(参照 郷土古川より)
当時の百円の価値は、百円あれば家が建つといわれたほどでした。米一升が、12銭3厘・酒一升が20銭。(明治33年・100銭で1円) 当時の農家は、貧しくて白米は食べられず、ヒエや粟が混じった飯を食べていました。
ああ飛騨が見える (ああ野麦峠より抜粋)
明治42年11月20日午後2時、野麦峠の頂上で一人の飛騨の工女が息を引きとりました。名は政井みね、二十歳、信州平野村山一林組の工女です。またその病女を背板にのせて峠の上までかつぎ上げて来た男は、岐阜県吉城郡河合村角川の政井辰次郎(31)、死んだ工女の兄でありました。
角川といえば高山からまだ七、八里(約30キロ)、奥越中(富山)との国境に近い、宮川沿いの小さな部落です。ここから岡谷まで七つの峠と30数里の険しい山道を、辰次郎は宿にも泊らず夜も休みなしに歩き通して、たった2日で岡谷の山一林組工場にたどりつきました。
「ミネビョウキスグヒキトレ」という工場からの電報を受取ったからです。
辰次郎は病室へ入ったとたん、はっとして立ちすくみました。美人と騒がれ、百円工女ともてはやされた妹みねの面影はすでにどこにもありませんでした。やつれはててみるかげもなく、どうしてこんな体で十日前まで働けたのか信じられないほどでした。病名は腹膜炎、重態でした。工場では辰次郎を事務所に呼んで十円札一枚を握らせると、早くここを連れだしてくれとせきたてました。工場内から死人を出したくないからです。辰次郎はむっとして何かいいかけましたが、さっき言ったみねの言葉を思い出してじっとこらえて引きさがりました。
「兄さ、何も言ってくれるな」
みねはそう言って合掌しました。飛騨へ帰って静かに死にたがっているのだと辰次郎はすぐ察しました。みねはそういう女でした。準備して来た背板に板を打ちつけ座ぶとんを敷き、その上に妹を後ろ向きに坐らせ、ひもで体を結えて工場からしょい出しました。作業中で仲間の見送りもなく、ひっそりと裏門から出ました。辰次郎は悲しさ、くやしさに声をあげて泣き叫びたい気持をじっとこらえて、ただ下を向いて歩きました。しかし、みねは後ろ向きに負われたままの姿で、工場のほうに合掌していました。その時、
「おお 帰るのか、しっかりしていけよ、元気になってまたこいよ」
あとを追ってきた門番のじいさんが一人だけ泣いて見送ってくれました。
「おじさん、お世話になりました」
「元気になってまた来いよ、心しっかりもってな」
二人はお互いに見えなくなるまで合掌していました。辰次郎はこの門番の言葉にやっと救われた思いで歩き始めました。それはこの岡谷に来て初めて聞く人間らしい言葉だったからでした。彼は、松本の病院へ入院させるつもりで駅前の飛騨屋旅館に一泊しました。この旅館の経営者中谷初太郎は辰次郎たちと同郷の河合村角川出身者で、その彼も一緒になって、みねに入院することを勧めましたが、飛騨へ帰るというみねの気持は変りませんでした。
しかたなし辰次郎はまたそこもしょい出して、いよいよ野麦街道を新村、波田、赤松、島々、稲核、奈川渡、黒川渡、寄合渡、川浦と幾夜も重ねて、野麦峠の頂上にたどりついたのが11月20日の午後でありました。
その間みねはほとんど何もたべず、峠にかかって苦しくなると、つぶやくように念仏をとなえていました。峠の茶屋に休んでそばがゆと甘酒を買ってやりましたが、みねはそれにも口をつけず、
「アー飛騨が見える、飛騨が見える」と喜んでいたと思ったら、
まもなく持っていたソバがゆの茶わんを落して、力なくそこにくずれました。
「みね、どうした、しっかりしろ」、辰次郎が驚いて抱きおこした時はすでにこと切れていました。
「みねは飛騨を一目みて死にたかったのであろう」、そういって辰次郎は六十年も昔のことを思いだして、大きなこぶしで瞼を押え声をたてて泣いていました。当時の彼の衝撃が想像されます。
資料によると、旧山田村(神岡町)では300戸あるうち、560人が行きました。一軒で2,3人のところもあったようです。国府村では、458名(明治43年)。ひとつの村でこれだけの数であるので、飛騨全体では凄い数になると思われますが、他の地域では当時のそうした記録が残っていません。
女工哀史は粗悪な食事、長時間労働、低賃金が定説になっていますが、飛騨関係の工女は食事が悪かった・低賃金だったと答えたものはいませんでした。
長時間労働についても苦しかったと答えたのはわずか3%だけで、後の大部分は「それでも家の仕事より楽だった」と答えています。それもそのはず、家にいたらもっと長時間、重労働をしなければ食ってはいけませんでした。
日本の経済をささえた飛騨のおしんたちを偲び、
野麦峠から美しい飛騨を眺望していただきたい。
食べたかっただろうなぁ・・・
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