飛騨のかっぺたん
旧江戸幕府直轄地
飛騨高山城下に、
があります。
⭐️飛騨高山に菓子文化が発展したわけ🌟
飛騨高山は、
織田信長の側近
「金森長近」
が治めていました。
天正14年(1586)、
飛騨国3万3千の石の国主として入府し、
ここから金森氏6代、107年の政治が始まりました。
戦国時代、織田信長の家臣として仕え、信長亡き後、関ケ原の戦いでは徳川方について前線で戦い、美濃国上有知(みののくにこうずち)1万8千石、河内国金田(かわちのくにかねた・大阪府)3万石が加増されました。
飛騨国に入国した長近は、城の建設を天正16年(1588)から始め、
慶長5年(1600)までの13年間で本丸、二之丸を完成させ、
以後三年かけて三之丸が築かれました。
日本国中に5つとない見事な城だったと記録が残っています。
✨城下町と菓子💫
菓子、和菓子ときいて思い浮かぶのは、
東京・小田原・京・金沢・・・
全てに共通しているのは、
「城下町」
という点・・・
残念ながら、現存してはいませんが、
日本で5つの指に入ると言われた名城が飛騨高山にありました。
城下町(元城下町含む)
に銘菓があり、お菓子文化が根付いているわけは、
”茶の湯”
との関係が深いと考えられます。
信長・秀吉と関係の深い
の時代から、江戸時代まで普及しました。
茶の湯には、
お茶請けとして必ず菓子が必要であったことから、
藩主を始め武士が茶の湯を嗜む際に供される和菓子作りの文化が発展したのです。
それに、
飛騨高山は、
のちに江戸幕府の直轄地となっているため、
経済的にも恵まれ、
嗜好の文化も発展しやすかったと言えます。
そういうわけで
城下町の菓子はその時代の
人々の口に合うよう進化し
銘菓が生まれてきたというわけなのです。
🌟江戸時代から伝わる飛騨地方の庶民のお菓子🌟
江戸時代では、砂糖は大変貴重なものとして扱われ
滋養薬として用いられていたほど。
特に、飛騨の山国では、
砂糖が大変貴重なもので
砂糖を使用する上菓子とともに
炒豆、干栗、くるみ、米、麦、大豆などの山里の恵みを原料とし
自然な甘さを引き出す職人の技から生まれた庶民の
味が”田菓子” ”駄菓子”として生み出されてきました。
🌟飛騨高山の駄菓子文化を伝える菓子匠🌟
創業1945年、飛騨高山の駄菓子文化を伝える菓子匠
【音羽屋】
は、
庶民が愛した素朴な駄菓子の生地に、
豊かな時代の訪れとともに
使用を許された
上白糖を絡めた、飛騨の歴史の集大成ともいえる逸品を生み出しました。
「飛騨のかたりべ」
は、きな粉と香煎(麦こがし・はったい粉・煎り粉ともいいます)
の練り生地に
真っ白い絹のような糖蜜をからめた香ばしく上品な半生菓子。
小京都飛騨高山の雅と懐が微妙に調和した
飛騨を代表するお茶菓子の逸品です。
庶民にも愛された
上品でありながらも飾らない
素朴な風味は
飛騨高山においでになられた
美智子皇后陛下
にも
二度にわたってお求めになられたほど
お気に入り戴いております。
ご自身のお茶請けとして、
ご友人来訪の際のおもてなしとして、
ご訪問時のご挨拶として、
を、ご紹介致します。